1544 かくすれば・・・
山口に住んでいながら松陰の事をほとんど知りませんが、つい最近、幸運にも松陰が書いたものを(日記や手紙、本物です)間近に見る機会がありました。
松陰は知識もあり、日本各地を歩いての見聞も豊かで、社会情勢にも通じていたはずですが、どこか社会的常識がないというか、変なとこがあります。
1854年、ペリ-がアメリカ東インド艦隊(黒船)を率いて2度目に日本に現れた時、下田から船をこぎ出し、横付けし 「アメリカまで乗せてくれ」 と頼んでいます。 そんな無茶苦茶な頼みが受け入れられる訳もなく・・・松陰は江戸の獄中に、そして罪人として萩に送還されます。
この手紙は獄中で 兄の杉梅太郎と交わした手紙。裏に杉梅太郎からの手紙。表が松陰からの手紙。当時は親しい人との手紙のやりとりは表と裏に書いたそうです(倹約のため)。
そして、この手紙の始めの方に、黒船に漕ぎ寄せた時の、松陰の気持ちが書かれています。
松陰も無理な話とは分かっていたんですね。 当時は24歳。大人の知恵もある年頃で、普通はしないと思うのですがそこが松陰です・・・
長州藩はその後 松陰の生徒でもあった、伊藤博文など若者達を英国へ留学させています。小さい頃から長州藩の英才として大事にされていた松陰もその一員に必ず選ばれていたはずです。
新しい社会を創造したり、新しい発見をするのは、(社会的)常識や知識が浅い若者や新人です。常識や知識に縛られないからこそ、それまでにないもの考えたり、作り出せるからですね。松陰は歴史の中ではそういうきっかけをつくった一人かもしれません。
そして、これは手帳くらいの大きさの松下村塾の会計簿。松陰はなかなか筆まめです。
私はPC も IT も初期の頃から使い始めましたが、バラ色の世界を作る道具ではない。と、思っています。E-メ-ルより切手を貼った手紙(スネ-ル・メ-ル)、バ-チャルより現地探索。本物には勝てません。
松陰の書いたもの間近に見ていると、触れるとそこにいるような気がして、松陰っていい奴だな と幸せな気持ちが湧いてきました。