森羅万象

2145 松山(2)ロシア人墓地

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三泊四日で松山に帰っていた。実家は松山城がよく見える城北に。南を見るとお城山もよく見えたが、ビルが増えて、お城山も見えにくくなったしまった。子供の頃よく遊んだ辺りを散歩。かつては山であった場所は、松山大学の構内に。

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このグランドはかつては「松田池」と呼ばれて、よく魚釣りをして遊んだ池であった。
プ-ルから上に登っていくと『ロシア人墓地』がある。


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日露戦争中(明治37,38年)、松山にロシア兵捕虜収容所が置かれた。日露戦争が始まり、ロシア兵捕虜の収容は全国約7万人、うち松山収容所は延べ6019人で最も多く収容された、38年四月ころには約4000人がいた。最初収容所は松山衛戍病院・松山公会堂・松山勧善社・大林寺があてられたが、収容人員が増えるにつれて雲祥寺・妙清寺・法龍寺を借り入れ、城北練兵場に付属病室(通称バラック)を建設、ついで正宗寺・一番町収容所・妙円寺・出淵町収容所が次々と開設された。さらに旅順開城で捕虜の増加が想定されたので、長建寺・弘願寺・不退寺・法華寺・来迎寺・浄福寺・龍穏寺・天徳寺など山越の寺々と松山市伝染病院をこれにあてることにした。
 (略)捕虜将校には道後温泉での入浴が特別に許され、霊の湯を借り切り、入浴後は道後公園を散策したりした。三八年四月からは「外出心得」によって捕虜たちの自由外出が認められ、高級将校や妻帯者には借家住いが許された。
 (略)学校はじめ市民もあたたかくロシア人をもてなした。松山捕虜収容所のロシア人は、38八年12月に順次帰国の途についた。この地で死亡したワシリィ・ボイスマン大佐はじめ98人の人々は、御幸寺山山麓の通称「ロシア人墓地」に葬られた。明治39年2月、松山捕虜収容所はその使命を終えて閉鎖された。(レファレンス協同デ-タ-ベ-ス)より


収容所は各地にあったが、捕虜を大切に扱う松山の収容所がロシアでも有名で、投降する時には「マツヤマ、マツヤマ」と叫び、マツヤマという言葉が投降する意味であったと言われている。

その御幸寺山は子供の頃からの遊び場で、子供の頃は荒れ果てていたが、松山大学がキャンパスを広げる時にロシア人墓地辺りも整備された。

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子供の頃、クヌギと思っていたドングリはアベマキでした。


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by ab300211 | 2015-12-15 18:37 | 風景