1786 ぶらり鹿児島旅(3)本土最南端 佐多岬へ
錦江湾ぞいの道は 「ちょっと車を停めてみようか」 が多く・・・ ガイドブックに載っていた小さな砂州の先にある 「「荒平天神」です。 まぁ 何と海がきれいなことでしょう。 海の向こうにボンヤリ見えるのが対岸の薩摩半島です。
荒平天神からしばらく走り、小高い展望所から見た、これから行く 佐多岬方面です。
左が佐多岬、 右が薩摩半島の先端で この間を抜けると太平洋です。 薩摩半島のランドマ-ク、開聞岳もだんだん大きくなり、上の方がきれいに見えてきました。
そして、こちらが本土最南端の道の駅 「道の駅 根占」でございます。 もう そら豆もエンドウ豆も並んでおられ、野菜は格安でございました。が、人影は無しの店内でありました。
「道の駅 根占」前の大浜の砂のきれいなこと! 開聞岳の全身も見えるようになり。 真向かいが今夜のお泊まりの指宿。 そうだ 根占からフェリ-が出ているはず。それに乗ったら、50分で山川港、山川港から5分で指宿につけるぞ!を思い出し 根占港に電話すると 「12日から点検のため船はお休みです」 (-_-)゜zzz・・・
道端にはアワユキセンダングサ(の仲間)が咲いておられました
岬まであと10キロで 海辺の道は終わり 照葉樹林が素晴らしい山道へ。 ヤマザクラは散りかけていました。 昔「本土最南端ブ-ム」の頃はこの道は有料道路でしたが、観光ブ-ムも去って、道路は無料、すれ違った車はたったの三台でした。
ここに来るのは三度目です。 初めて来たのは19歳の、大学1年生の春休みの3月でした。同じ下宿の先輩から「うちへおいで」と言われ南九州旅行に出発。まずは、霧島の京町Kさん宅で一泊させて貰い、宮崎市のIさん宅で一泊。宮崎市から都井岬までは徒歩とヒッチハイクで。翌日は都井岬から徒歩とヒッチヒクで内之浦まで行き 国民宿舎へ 。「 もう満室・・・可哀想だから50畳部屋に泊めてあげよう」で一泊。
「えっ 明日のロケット打ち上げ見に来たの? 明日は立ち入り禁止 報道陣も1キロ手前までだよ」と風呂で気象観測機械をつくる会社の方が教えてくれました。
これから先は もう時効になっているので・・・・思い出話を続けます
「よし!ダム建設地の椎原の奥に出張して 帰りによった我が社の社員ということで 一緒に連れていったやるよ 」 翌朝は6時に宿を出発。 ゲ-トで厳しい?チェックを受け、ロケットがすぐそこに見える 「気象観測室」へ。 東京大学の宇宙研の先生方に 「我が社の社員です」 と紹介してくれましたが、汚いザックを背負った19歳。何年生?と笑いながら 「東大宇宙研」のヘルメットを渡してくれました。 ヘルメット姿の記念写真は私のお宝です(その時、あのイトカワ先生のお姿も見かけしました)
「打ち上げまであと○時間です」から始まった緊迫のカウントダウンを体験。 間近に見るロケット打ち上げはものすごい大迫力でした。 ロケットはラムダ型最後のラムダ4H ( 東大宇宙研のロケットは秋田県で 糸川のペンシルロケットから始まり K(カッパ-) L(ラムダ)へと大型化し L の次は実用ロケットのM(ミュ-)へと進化していったはずです)。Mロケットになって、JAXAの種子島宇宙センターが建設(1969年)され、大型ロケットが打ち上げられるようになりました。
ラムダ4Hの打ち上げは成功、宇宙に日本初の人工衛星を送り出しました(電波だけを地上に送る小型の試作衛星は地球を2周したとこで電波が途絶えました) ということで「日本初の人工衛星打ち上げをこの目で見た」は青春時代の輝かしい思い出です。
内之浦の次はバスとヒッチハイクで大隅半島を横切って佐多岬へ。バスの中ではおばあちゃんに話しかけられ、言葉が全く理解できず 回りの人が笑いながら通訳してくれました。
その頃この道は観光バスで賑わっていました。 が、今はもうブ-ムも去って静まりかえった佐多岬への道でした。
「ながながと 昔話が多くなる」のは歳をとった証拠だなぁと反省しながら、しばらく走ると大泊 突然 海が見えてきました。 まぁ 何と美しいこと
それからまた300mくらい走ると左手に まぁ 何ときれいな小島!! になり