森羅万象

1750 上田豊 著 『未踏の南極ド-ムを探る』

晴天の東京・晴海埠頭。1984年11月14日。第26次南極観測隊を乗せた「しらせ」のスクリュ-が回りはじめる。船がゆっくり動きだした。甲板から見下ろす見送りの群れの中、老いた両親は悲壮な顔。小学1年の娘は最前列で泣いている。「しらせ」と岸壁の間を黒く汚れた水面が分け、みるみる残酷に開いていく。これから一年と4ケ月、遠く離れて暮らすのだ。紙テ-プは散って流れ、人々の表情や、誰がどこにいるのかも、すぐに分からなくなった。青空のもと、白っぽいビル群を背景に、見送りの人垣が岸壁に沿って横に長く連なっている。人垣の長い帯は、黒く広がる水面のむこうに遠ざかっていった。
 ちょうど1年前、あの岸壁で南極越冬に向かう友人の出航を見送った。次の隊でわたしが行くという踏ん切りは、まだ完全にはついていなかった。人垣が解けたあとの埠頭に、友人の妻子が肩を落として立っていた。1年後のわが身におきかえると、つらかった。そして、とうとう、自分の番がきたのだ。


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カンボジアから帰った翌翌日の12月20日昼、郵便箱を見ると本が届いていました。「南極の石」で紹介したAさん、上田豊(あげた)さんの 第26次南極観測隊での内陸調査旅行の記録でした。夕方までかかって一気に読んで、改めて感動しました。簡潔な文、叙事的なことがらを並べて、それでいて叙情的、これぞ名文です。何よりも内容が素晴らしく・・・ぜひ、お近くの書店で。または、ネットで出版社の「成山堂書店」 http://www.seizando.co.jp/article/14201880.html からご購入下さい。

沈んでいく太陽が、海面の輝きを銀色から金色に変える。バリ島のアグン山が、暗雲の上に頭を見せる。やがて雲は減り、空も金色に染まってきた。空の輝きは水平線あたりで最高潮に達する。夕陽は水平線に浸みこむように、あかね色をにじませて没した。
 甲板でこんなに長時間、外の風にあたったのは久びさだった。その夜、川口貞男隊長に呼ばれる。福西副隊長も深刻な表情で同席している。2人とも南極観測を推進する国立極地研究所の研究者で、隊長は観測隊参加7回目の大ベテラン、副隊長もわたしと同じ年ながら4回目のベテランである。
 隊長が口を開く。いま南極では25次隊から東ク計画の調査隊が内陸に向かっているが、みずほ基地にいる隊員が雪上車事故で、重傷を負い、急いで治療せねばならない。越冬隊の医師は、いま昭和基地と内陸隊に1人ずつだが、内陸隊同行医師の専門が、今回の治療に向いている。そこで前進中の内陸隊を呼び戻した場合、雪氷調査の年次計画について、今後の見通しはどうか。26次隊・内陸雪氷責任者のわたしの考えをききたいという。
 いま内陸調査隊はかれらの越冬の最大の目標ともいえる未踏の氷床ド-ム探査に、張り切って向かっているはずだ。そこには位置も高さも未知の、南極第2の高さをもつド-ム頂上がある。一連の観測のうえに、その頂上を探り出すという目標を、かれらは持っている。しかし、わたしたち26次隊も同じ地域に向かうので、肩代わりできないことではない。わたしはじっと考え、答えた。「ド-ム探査は26次隊でもやれます」複雑で重い気持ちだった。これは、25次隊の友人たちに、計画を中途で断念させることにつながろう。わたしたちが背負う責任もいっそう重くなる。
 4日後の夜、川口隊長が昭和基地と電話で交信した結果を伝えてくれた。25次隊は2日まえに南緯75度で前進を打ち切り、往路を戻りはじめたとのこと。これで、ド-ム頂上探しという大課題が、わたしたちに託されることになった。先日のわたしの答えがどう影響したのか、いきさつは分からない。魅力にとんだ課題だけに、25次内陸隊がかわいそうに思う。順調に目標に向かっていたのに、早々とその入口で引き返すことになったのだ。
 ヒマラヤの未踏峰と南極の未踏地にあこがれて、わたしは京大の山岳部にはいった。そんな所に行けるのは夢のように思っていたが、幸いにもヒマラヤは学部生、南極は大学院生の時に実現していた。その後、ヒマラヤの氷河調査を主眼にしていたわたしは、1980年代になって外国人に門戸が開かれたばかりの中国奥地・チベット高原に最大の魅力を感じていた。このような時に南極に再び行くのなら、魅力のある未踏の地にトレ-スをつけたかった。南極で今回の調査に予定されている地域にも、未踏地はある。だがル-チン的に空白域を埋めていくもので胸が熱くなるような魅力はなかった。
そんなこともあって、わたしは去年この26次隊への参加を渋っていた。だが、結局は、ヒマラヤ氷河研究の強力リ-ダ-でもあった渡部興亜さんの熱心な説得に応じた。


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11月28日フリマントルに入港。家族からの手紙が届く。今日はちょうど6歳の誕生日となる末娘は、こう書いていた。「・・・こおらないでね。おとうさんがこおったらわたしわないてしまいます」 また妻の手紙に、小学1年の次女が書いた作文のことがあった。「せんたくものかたづけ」と題して「もう、おとうさんのせんたくものは、1つもありませんでした


遠くの山々を背景に、神山・藤井が並んだ写真を撮る。いつもはしないのだが、わたしの写真も撮ってもらう。風は弱い。雲の下、地平線の上には、うっすら晴れ間も見える。時どき陽がさしている。
周りには、セ-ルロンダ-ネ全域の山々が広がっていた。山脈東端からあすか基地まで、走ってきたル-トが全て見える。ペルテカカは他の山の後で見えない。みずほ基地での生活など、色々なことの終点がここにあることを少し考える。だが、なかなか一つにつながらない。けれど、長かった内陸行動の、幸せなピリオドに違いなかった。(1986年2月7日の内容より)


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では上田さんの秘密得意技を紹介してみましょう
(1)整理整頓魔です。が得意です。
机の上を見るとペンが同じ向きで並んでいます。「ペンは必ず3本ね。メモ用紙は右隅ね」という風に。片づけが趣味なん? 違うよ! 例えば山でテントで寝てる時 すぐ逃げ出す事件がおこるとするよね。寝る前に 靴はここ、手袋は右横と ちゃんと整理しておけは 暗闇でも すぐ靴を履き、すぐ手袋をつけることができ助かるよね。ほ~ 登山家はみんな片づけ好きか~! 違うね~ 人それぞれ  ぼくはちらかってると気になって 気になって (-_-)゜zzz・・・ 損な性格なんよ  (-_-)゜zzz・・・
本を読んでいくと 「南極ても損な性格を発揮しているなぁ」 というところがありました。だから、無事帰ってこれたんですけどね。


(2)記録魔ですが得意です。
例えばバスに一緒に乗ると 時々 フィ-ルド・ノ-トに何か書き込んでいます。A街からB街までバスで1時間15分という風に。メモ好きなん? 違うよ 次回の準備。人間の記憶はあやふや。A山のB岩からC岩まで25分かかる。ちゃんと記録しておかないと・・・人間は記憶があやふやだから、15分だったはずと思いこんで行動すると遭難するかもしれんからね。 なるほどね~ わたしもフィ-ルド・ノ-トを買いました。


本のお礼メ-ルを出しました。すぐ返信があり・・・・HP森羅万象の事は秘密にしていたのに、前から知っていて、もうこのペ-ジも見ていました。このペ-ジも笑って?許してくれました。 ただ 整理整頓の「魔」が異常者と思われるかもしれんと心配していました。 から、さっそく訂正しました。整理整頓は きれいにするのが目的でなく 必要な物が必要な時にすぐ取り出せる からで、わたしもずっとそう思っています。また、出来事を記録するのもいつか役立つことです。上田さんを見習って 実行に努めています。が、言うは易し・・・です。みなさんもぜひ頑張って下さい。隊員達はよく音楽を聞きながら、雪上車を走らせています(雪原は平らに見えますが、デコボコの場所が多く、調子がよくて一日40キロ程度、雪原の状態が悪いと一日10キロも進めないこともあります)。上田さんがどんな音楽を聴いていたかは本を読むと分かりますが・・・・新しい得意技を開発したようです。

(3)ボクはチェロが弾けます
この本の原稿を仕上げてから練習を始め、弾けるようになったそうです。


この本の執筆にあたり、4半世紀を経ようという昔話を、「今さら」書くのか、書けるのか?という気持ちもあった。しかし、越冬当時に書きためた日記はB5版の大学ノ-ト7冊、全部で500ペ-ジほどある。いつか本を書く気になればと出発前から決め、疲れた晩には体にむちうち、内陸旅行中は凍えた指をさすりながら書いてきた。帰国してからは、いくら年月が過ぎ去っても、この日記を生かせられないはずはない、と思いつづけてきた。書きしるしただけで風化するにまかせず、自分の意識のなかに、まとまりをつけ定着させておきたかった。
 日本で当時までに出版された南極関係の本の中に、研究者の目で、内陸で越冬した1年を書いた紀行は無く、南極観測が始まって50年を越えた今も無い。わたしたちが日本を出てから、内陸旅行に思いがけない計画も加わった。わたしたちが探してみつけた「ド-ムふじ」は、いま深層掘削によって環境変動の研究で、世界の注目を集めるようになった。ただそれでも、わたしの前著、ヒマラヤ初登頂記 「残照のヤルン・カン」(中公新書、1979)の垂直方向に凝縮した生死にかかわる行動に比べれば、南極での1年を越える行動は、水平方向に発散するような、単純で退屈な記録になるかもしれない。
 しかし、最近まで、一般に南極といえば極寒、ペンギン、オ-ロラ、そしてタロ・ジロの世界でとどまってきた。この26次隊の内陸行動でも、報道されたのは、みずほ基地で日本隊にとって過去最低の気温が記録されたという1件のみだった。低温は「自然」の現象だから、隊員の努力や苦労とは無関係に生じることだ。ところが、そんな厳しい場所で、「人間」が何をどんな気持ちで為しているかが知られる機会は、ほとんどなかった。その事実をあとに残そう。これが、「今さら」と思われようと、書く意志を保てた理由だ。


この「あとがき」の部分を読んで、上田さんの気持ちが痛いほどよく分かりました。やっぱり上田さんは素晴らしい人だ!なお 「残照のヤルン・カン」も山岳紀行本としては名作、傑作です。これほど素晴らしい山の本を読んだことはありません。




わたしの弟 阿部幹雄も南極観測隊に三回連続して参加しています。本を出そうとしていますが、出版界では「南極の本は当たらない」というジンクスがあって、大手の出版社にはその気がなく難航しています。出せるといいんですが。上田さんも苦労したようです。 弟も山の本は何冊か書いています。この際、兄弟のよしみで紹介してみます。

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1981年、北海道山岳連盟隊はミニャ・コンガに挑むが、八人が遭難。弟は仲間の滑落を目の当たりにしながら、登頂班先行グル-プの中で、一人生き残る。その後、遺体捜索や慰霊のためこの山を何度か訪れてもいる。これらも含め、以後15年にわたって 心の軌跡も描いた山の記録です。なお、1981年に親を失った遺族、当時は子供だった4人が大人になった時、彼らを連れ、自分たちの親が亡くなった地点がみえる場所、この山の麓まで、1981年の登山に参加した心あるメンバ-とともに 案内する旅もしています。この旅はNHKがドキュメンタリ-として一時間の作品にし、放映されました。兄としても心が重い番組でした。1981年の遭難の際には上田さんにもお世話になりました。

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by ab300211 | 2011-12-20 22:23